もとは、野生の木だったコーヒー、人々は気づき、生活に浸透させていったそうです。
イスラム教の聖職者シーク、オマールは、疫病が流行っていたモカの町でね。
祈祷を捧げ、多くの人の病気を癒していて。ある時、モカ王の娘が病気にかかって。
オマールが祈祷を捧げたところ病気は治りましたが、美しい娘に恋をしたオマールはオウサブという山中に追放されたの。
洞窟で暮らし、食べ物も満足になかったオマールはある日、美しい羽根を持った小鳥が木に止まり、陽気にさえずるのを見てね。
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そこで、手を伸ばした木の枝先に赤い実がついていて。空腹だったオマールが、その実を口にすると、美味でした。
彼はたくさんの実を洞窟へ持ち帰り、スープをつくり、それを飲むとたちまち爽快な気分になったの。
それから、オマールの見つけたこの不思議な飲み物の噂は町へ伝わり、オマールは町へ戻ることを許されたそうです。
また、アラビア人のカルディという山羊飼いはエチオピアの草原で放牧生活をしていてね。
ある時、気づくと、自分の山羊が楽しそうに飛んだり跳ねたりしていたの。
それで、調べると、あたりに茂っている木になった真っ赤な実を食べていることがわかってね。
自分も食べてみると、とても爽快な気分になったそうです。
カルディは山羊と一緒に毎日この赤い実を食べ、元気に楽しく働いていたの。
ある日、通りかかったイスラム教の僧侶がカルディたちの様子を見て赤い実の不思議な力にびっくりしてね。
これを、僧院に持ち帰り、仲間の僧侶たちにも食べさせたところ、甘ずっぱいおいしさに加えて。
眠気がとれ爽やかな気分になり。それ以来みんなすっかり魅せられ、魔法の豆として、密かに愛用されるようになったの。
また、コーヒーの生い立ちを伝える話は、色々ありますが、最初はイスラム教の僧侶の眠気ざましの妙薬として広まったそうね。
それで、今からおよそ1千年ほど前、アラビアの都バグダットの王立病院長だったラーゼスという人が。
(古来、エチオピアに原生していた灌木、バンの種実(豆)を砕いて煎出した汁液バンカムは。
一種の薬として胃に良い)と書き残していて。バンはコーヒーの木のことですが、当時は薬として、とても珍重されていたの。
喫茶店のルーツ (煮出すコーヒーからドリップへ)
コーヒーは、初めは実をつぶして脂をまぜ、団子にして食用にしていたの、その後、実と葉を一緒に煮て煮汁を飲むようになってね。
そこで、実の皮と種子を天日で乾かして使うようになり、種子を煎って粉にして使うようになったのは13世紀頃なの。
つぎに、世界最初のコーヒー店の誕生は、カイロ、トルコ、コンスタンチノープルです。
アラビアを起源にイスラム教全土へと広まったコーヒーは、1510年頃、カイロに世界初のコーヒー店を出現させてね。
1554年には、トルコの首都コンスタンチノープルに(カヴェー、カネス)という著名なコーヒー店を誕生させているの。
この時、トルコでは、コーヒー豆を煎り、それを石臼で挽いて煮出して飲む方法が広く親しまれていましたね。
ヨ-ロッパにコーヒーが本格的に普及したのはロンドンのトルコ人貿易商ダニエル、エドワードが。
トルコから連れ帰ったパスカ、ロゼにコーヒーをいれさせて、お客に振る舞っていたところ大評判になり。
1652年にコーヒー店をオープンしたのがきっかけで、異国の飲物のコーヒーの珍しさと独特の風味にひかれて大変な賑わいを見せましたね。
これらが、近代的な喫茶店の誕生と言われていますの、そこで、わずか10年で2000軒のコーヒー店をロンドン市中に林立させたの。
熱いブームの発火点ともなり、でも、この頃のコーヒーは依然として煮出して飲むターキッシュ、コーヒータイプでしたね。
また、フランスでもコーヒーはまたたく間に普及してね、フランスはコーヒーの近代化に重要な貢献をしましたよ。
ドリップ式の考案で、この方式を考え出したのは、驚くべきことにひとりの名もないブリキ職人だったのですね。
ポットの中にたらした布袋にコーヒーの粉を入れ、熱湯を注いで浸透させる器具の発明で。
煮出すコーヒーから漉(こ)すという、近代コーヒーの基盤が編み出されたのですよ。
それはね、1763年、まさにコーヒーの一大革命でしたよ、コーヒーの豊かな味と香りを最大限に抽出するね。
このドリップ式を考案した一人のコーヒーファンのブリキ職人に、私たちは深く感謝して、語り継ぎたいの。
また、日本にはいつごろ (可否茶館の名を知っていますか)ところで、コーヒーは、日本にはいつ頃伝わってきたのでしょうかね。
それは、足利時代にキリスト教の布教のためにやってきたポルトガル人やスペイン人が伝えたといわれているの。
でも、有力な説では、江戸時代に入ってから長崎出島にオランダの商人が持ち込んだとされていますね。
史実では、出島のオランダ屋敷に招かれた蘭学者たちがコーヒーを賞味したという話が伝わっているの。
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1797年(寛政9年)の(長崎寄合町諸事書上控)の中の、長崎丸山の遊女が貰った物の一つとして(コヲヒ豆一箱、チョクラート)の文章が最初です。
そこで、より信頼できる文献は、1782年(天明2年)に、蘭学者志筑忠雄が訳した(万国管窺)という本でね。
この中に(阿蘭陀の常に服するコッヒーと云ふものは形豆の如くなれどもじつは木の実なり)と書かれています。
天明3年の(紅毛本草)にも、コーヒーが万病に効く薬だという意味のことが記されて、名を見せていますね。
では、江戸末期に出島のオランダ商館に医者としてやってきたドイツ人のシーボルトは。
日本人があまりコーヒーを飲まないのは、すすめ方が悪いからだ。
コーヒーが身体に良いことをよく説明すればね、もっと飲むようになるだろう。
と言っていて、非常に鋭い観察からきた面白い言葉ですよね。
また、明治になると、世はまさに文明開化の時代で、東京の町は西洋御料理店なるものが誕生しました。
このような店で、コーヒーがしだいにメニューに加えられていきましたね。
それで、1888年(明治21年)4月13日。東京・下谷黒門町に(可否茶館)という名前の。
日本最初の、本格的喫茶店が鄭永慶(ていえいけい)という人によって開店しました。
親が外交官だった永慶は、自分の家を洋館に改造し、コーヒーを一銭五厘、牛乳入りコーヒーを二銭で売り出しましたがね。
(可否茶館)は残念ながら3年足らずで閉鎖してしまいましたが、鹿鳴館の時代に一般庶民が利用できる喫茶店を開業した鄭氏の功績は。
日本コーヒー史においても特筆されていますね。
でも、明治の中ごろからコーヒーを飲ませる店が少しずつ増えて。
明治の末には、東京、銀座に(カフェー、プランタン)や(カフェー、ライオン)が開店しましたね。
それでも、コーヒーの大衆化に最も貢献したのは(カフェ、パウリスタ)という。
ブラジルコーヒーの販路拡大とPRのために開かれた喫茶店でしたよ。
明治41年に始まった、日本からブラジルへの移民の多くが、コーヒー農園で働いていてね。
その見返りで、ブラジル政府から無償のコーヒー豆が提供されて、その豆を用いて、コーヒーを低価格で提供した。
(パウリスタ)は、最盛期には20数店舗、従業員も1000名を越えるほど繁盛しました。
その(パウリスタ)で働いていた一人が、キーコーヒーの創業者、柴田文次さんです。
(パウリスタ)の繁盛に、コーヒー事業の計り知れない可能性を見出した文次さんはね。
大正9年、横浜市中区に、(コーヒー商 木村商店)を開き、以来、日本にコーヒーを普及させるために。
コーヒーの製造、販売のほか、世界のコーヒーやコーヒー器具を紹介したり、更にはコーヒー農園事業までを手がけましたね。
それで、コーヒーシロップと新しい商品を開発、またコーヒーの啓蒙や広告宣伝を積極的に行って。
日本のコーヒー文化の発展に大きく貢献したそうです。
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